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不思議なものを追いかける/らせんの宿、phantom twins

謎・なぜ日本人は英語が苦手なのか?苦手でも特に問題ないからだった!

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2011年に小学校5年、6年生の英語が必修となりました。

前倒しの流れはまだ続いています。2018年からは移行期間として小学校3、4年生にも外国語活動として英語が導入され、2020年からは必修となります。
時代の流れを考えれば英語学習の低年齢化は当然という意見もあれば、日本語の取得に混乱をきたすという意見もあり、賛否あります。




指導環境を整えないまま、科目を増やしてどうするんだって意見もありますね。

ただ、小学生の英語学習に反対だとしても、英語学習そのものを否定する人はいません。社会人になってから英語を身につけようとしている人は大勢います。逆に言えば中学、高校と6年間、大卒者なら計10年は英語と向き合ってきたはずなのに、英語を話せない人が多いのです。

英語圏の人からは、日本人は英語が下手だと言われます。アジア圏の国はみんな苦手なのでしょうか。お隣の韓国はそうでもありません。
TOEICの平均点は日本が512点で国別では40位。韓国は632点で30位です。負けてしまってます。

こんなに勉強してきたのになぜでしょう。
いくつか理由があると言われています。

・受験英語なので正解、不正解が過度に重視されてきた。
・現実的ではない言い回しが多く、時間をかけたわりに活用されない。外国へ行くこともなかった。そして忘れた。
・発話、リスニングの比重が小さく、しゃべれないし聞き取れない。

かくいう私も英語が苦手です。聞き取りなどまったくできない。外国人に話しかけられたら「う、あ……」となること請け合いです。

日本語は英語が不要なようにできていた!?

明治時代、多くの英単語が日本に入ってきましたが、その翻訳に努めた人がいます。

一万円札の肖像となっている福沢諭吉。

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画像はWikipediaより

福沢諭吉は教育者であり、西洋文学にも精通していました。
他国の言語が入ってきたとき、福沢諭吉は次々に日本の言葉に置き換えていったのです。
たとえばfreedom、libertyを“自由”という言葉にしたのも福沢諭吉です。
※freedom、libertyを天下御免とする案もあったようです。なんとも言えない“まかり通る”感がいいですね。味があって。

英語を次々と日本人に馴染みやすい言葉に置き換えてくれたおかげで、現代の私たちはほぼ日本語だけで、英語圏の表現も理解することができるようになったのです。
他の東南アジアではそういう置き換えがなされず、大学の授業などは全て英語で行われたりしました。

4世紀の後半、漢字が中国から日本へ伝わってきたときも、日本人は音に漢字を当てはめ、独自の文字体系を作り上げていきました。
他国にしかない表現であっても咀嚼して独自のものに変えていく力が日本にはあったんですね。そのおかげで英語の取得には苦労しているので一長一短かもしれませんが。

ということで私たちが英語をしゃべれないのも、やむを得なかったわけです。というより、しゃべれないほうが道理に適っていた。やったー!


現実逃避していても、しょうがないので最後に英語学習のポイントを箇条書きしておきます。このブログを間違って受験生が見てるかもしれないですからね。

・英語を聞いて話す、聞いて書く。耳と口と手を動かし、脳へ刺激を与える。
・スカイプを使った英会話サービスを利用する。
・好きな洋画を繰り返し見る。セリフを丸暗記するつもりで。
・英語は学習時間に比例して成果が上がるものではなく、段階的に上がっていく。ちょっとずつ伸びるのではなく、一定の学習量に達したときに一気に伸びるイメージ。なので、すぐに成果がでないからといって焦らなくていい。
・単語帳は評価が高く売れているものを選ぶ。なんだかんだで人気のあるものがそのまま最適解。

英語のできない私が言っても説得力がないと思うので、英語ができる人の勉強法を拾いました。受験生は受験終了後にやったーしてください。


  1. 2017/08/27(日) 01:00:31|
  2. 歴史の謎

本能寺の変の謎!黒幕説vs光秀単独犯行説!

歴史の謎について書くなら避けては通れない、戦国時代のどんでん返し、本能寺の変です。
織田信長の配下だった明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか。

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画像はWikipediaより。

昔からその理由を説明する様々な説が唱えられているものの、これという説はありません。
歴史の転換点とも言えるダイナミックな出来事でもあり、私たちの心を捉えてやまない。
今回はオカルティストの想像で、本能寺の変を考えてみたいと思います。

諸説ある明智光秀の謀反ですが、おおざっぱに分ければその説は二つになります。
謀反を起こすよう光秀をそそのかした黒幕がいたのか、それとも光秀の単独犯行だったのか。前者を黒幕説、後者を単独犯行説とします。


まず黒幕説でよく挙がる人物。

羽柴秀吉
本能寺の変で誰が一番得をしたか、と考えれば候補に挙がるのは、その後織田軍を掌握することになる羽柴秀吉。中国大返しも速すぎる。秀吉が一枚噛んでるという設定は小説やドラマで見かけますが、それを裏づける史料がないことから、歴史学者でこの説を支持する人は少ないです。

徳川家康
黒幕説で秀吉よりも名前が挙がるのがこの人、徳川家康。
というのも信長と同時代を生きた宣教師のルイス・フロイスの記録や光秀の部下の証言(本城惣右衛門覚書)などから、光秀の部下たちは自分たちが戦う相手は家康だと思っていた節があります。実際に信長が光秀に家康の首を取れと言ったかどうかは別としても、そんな噂が当時流れていたとも考えられます。不穏な空気を感じていた家康が先手を打ち、万が一に備えて明智と結ぶ裏工作を進めていた、という話もあり得なくはない。
内容に違いはあれど家康と光秀を組ませると話が広がりやすいので、この説も小説、ドラマに多いです。

朝廷黒幕説
黒幕がいたとするなら、それは朝廷だったと考える説。数ある黒幕説のなかで、もっとも支持されている説です。
光秀は朝廷との調整役を担当していたので関わりも深い。朝廷の誰かと組んで信長を討ったという説はそれなりに信憑性があります。光秀と組んだ相手が朝廷の誰だったかは論者によって意見が分かれています。


次に光秀単独犯行説。

光秀の単独犯行だったと考える歴史学者はけっこう多いです。

代表的なのは、野望説、突発説、怨恨説の三つ。

野望説
天下取りの野望が光秀を突き動かしたとする説。信長と敵対する力はないが、チャンスがあれば天下が狙える立場にいた光秀は、本能寺で一世一代の賭けに出たとする考え方です。
私はこの説を推したいので、あとで触れます。

突発説
突発性は野望説に対する批判から生まれた説とも言われてます。

光秀が天下取りの野望に突き動かされて信長を討ったにしては、その後の光秀の行動が計画的とは言えず、深い思慮があったとは思えない。発作的にやってしまったのではないか、とする考え方です。

本能寺の変(6月2日)後、光秀は安土城に入ろうとするのも道中で橋を落とされ、3日間も立ち往生することになります。しょうがなく光秀は坂本城に入りますが、安土城と坂本城では世間に与えるインパクトが全く違う。信長の後釜を狙っていた光秀にとっては最初の誤算です。
この3日の間に光秀は積極的な手紙戦略を繰り出します。信長の主だった武将に味方になるよう呼びかけますが、何しろ10日後には戦となって敗れているので、どれほど効果があったのか不明です。
橋を直して安土城に入ったのが6月5日。それから秀吉の本拠地であった長浜城を落とし、9日には朝廷に献金し足場を固めようとしています。
そして光秀最大の誤算は、味方として当てにしていた細川藤孝、忠興、親子に見捨てられたことです。信長の死を聞いた細川親子はその死を悼んで断髪し、それを知った光秀は腹を立てつつも、軍事行動に加わるよう懇願する手紙を送っています。また謀反の理由について、娘の夫である細川忠興を取り立てたかったからだとも書いています。細川親子の決起を促すための方便と考えられますが、少なからず本音も混ざっていたかもしれません。


怨恨説
光秀が信長に恨みを抱いていたとする説。小説やドラマではしばしば信長と光秀の関係を、気性の激しい上司とそれに翻弄される部下という構図で描かれることがあります。信長の八つ当たりに耐えていた光秀は不満を溜めこみ、その怒りがついに爆発したとする考え方です。

光秀の内面の問題なので本当のところはどうだったかわかりません。光秀はどちらかといえば信長の信任を得ていたので、二人の関係は悪くなかったという反論もあります。

この仮説の根拠としてよく取りあげられるのは、小早川隆景宛の書状です。そこにははっきりと、「光秀こと、近年信長に対し、憤りを抱き、遺恨もだしがたく候」と書かれている。この書状が本物なら光秀謀反の理由は怨恨説で確定ですが、後世の偽書であるとする論者もいます。

もう一つ怨恨説を推す根拠となっているのがルイス・フロイスの日本史です。そこには本能寺の変の前、信長が光秀を怒鳴り散らしていた話が出てきます。ひょっとすると光秀は恨みを抱いていたのかもしれません。

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明智光秀。画像はWikipediaより

定説はなく、いくつもの仮説がある光秀謀反の謎。
このなかで私は野望説を推したい。


親子でさえも明日には敵に回るかもしれない気のおけない時代。婚姻で一族の枠を広げていったとしても、根本的に頼れるものは自分しかなかったはずです。

戦国時代は光秀に限らず、あらゆる人物に野心がありました。国だけが争っていたのではなく、領主に仕える武将の間でもせめぎあいが起こっていた。力の空白を作れば一気に潰されねない競争のなか、一族を存続させるにはライバルを押しのけて勝ちきるしかありません。野心は当然持ち合わせていなければいけないものでした。

光秀の謀反を不思議に感じるのは私たちが結果を知っているからに他なりません。
時代を生きている者にとっては世の中など、どう転ぶかわからなかったし、明日は誰にも読めなかった。
信長の死後、天下を掌握した秀吉ですら、先のわかる安易な賭けばかりではなかったはずです。それこそ一つ一つの決断に自分の運命をかけていた。

光秀も同じでした。
歴史が結果が全てなので、光秀の行動は短絡的にも映りますが、光秀には信長を討つリスクが霞むほど天下を掌握する夢が大きく映ったのかもしれません。
誰にも見えない光秀の内面の問題であるからこそ、本能寺の変の謎は永久に解けないパズルなのかも、と私は思ったりします。


ここでルイス・フロイスの光秀人物評を見てみます。
光秀は、
・裏切り、密会を好む。
・刑を科すに残酷で独裁的
・自分を偽装するのがうまかった
・謀略を得意とする、忍耐力もある
・立ち回りがうまい
・信長によく贈り物をして喜ばせ、嘘泣きをすることもあった
・築城に造詣が深い

ひどい言われようです。フロイスの主観なので偏りはあるでしょうが当時の人物が評した一次史料でその価値は高いとされています。このフロイス評、鵜呑みにはできないですが的を得ているところもあるのではないでしょうか。

こうしてみると光秀はなかなか計算高く、政治家向きだった印象を受けます。短絡的な人とも思えない。
この性格なら当時としてはごくごく普通に持ち合わせていた野心によって突き動かされたとしても違和感がないように思えます。

人物評の厳しいフロイスですが、ポルトガルの宣教師だった彼の目に光秀が上記のように見えていたのだとしたら、光秀は案外周りの目を欺くのは下手だったのかも、と思ったりもしますが。

どうですか?
本能寺の前にした光秀の姿や、その後の光秀の焦りを思い浮かべると、激動の時代を生き抜こうとあがくひとりの人間浮かび上がってきたりしませんか?

皆さんも想像を楽しんでみてください。


参考『明智光秀と本能寺の変・小和田哲男』

  1. 2017/08/25(金) 06:29:46|
  2. 歴史の謎

卑弥呼の正体が判明か!邪馬台国論争の決着は近いかも!

歴史に興味がない人でも、女王卑弥呼の名は聞いたことがあると思います。
3世紀の半ば卑弥呼(???~248年頃)が治めていた国が倭国であり、その都市のひとつが邪馬台国だったと考えられています。

縄文時代、弥生時代、古墳時代と続く一連の時代は史料がほとんどないため歴史学者は中国の文献や、後年に書かれた古事記(8世紀)や日本書紀(8世紀)を頼りに、考古学者は古墳や遺跡を調査し、手探りで当時のことを探っています。

そんな謎だらけの時代において、江戸時代から続く論争があります。

邪馬台国は一体日本のどこにあったのか、その地域巡る論争です。

きっかけは邪馬台国を紹介した魏志倭人伝のこんな記述でした。

魏とは中国の三国時代の魏です。コーエーゲームが好きな人には馴染みの深い国ですね。近頃は曹操様もいろんな姿になってますなー。

239年(魏志倭人伝)
「倭人は帯方の東南の大海の中にあり─郡より倭に至るには海岸に循いて水行し─始めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る。伊都国から南のかた邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月

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魏の使者が邪馬台国までのルートを示しています。伊都国まではおおよそ道筋が判明しているものの、問題は伊都国から南へ水行十日、陸行一月の記述。

水路で十日、陸路で一月という距離をそのまま南への道で考えると、九州を飛び越えて遥か先の太平洋に出てしまうのです。

これは方角の記述ミスで、南ではなく東と書くつもりだったとして邪馬台国を近畿と考える畿内説。
方角ではなく、距離の書き間違いで邪馬台国はそのまま南の九州と考える九州説。
畿内か九州か。二つの説を巡って様々な考察がなされました。


論争に決着がつかなったのにはわけがあります。
新たな出土品から真事実が次々とわかってきて、二つの説をともに後押ししたからです。

以下にまとめてみました。

九州説。
中国から渡ってきた鉄器の出土数が全国でもっとも多い。佐賀県で大規模都市、吉野ヶ里遺跡が発掘された。

畿内説。
黒塚古墳で大量の銅鏡(三角縁神獣鏡)が出土した。魏志倭人伝には銅鏡100枚を卑弥呼に送ったことが書かれており、三角縁神獣鏡がその銅鏡に該当するかもしれない。

※ただし三角縁神獣鏡は日本全国で500枚以上見つかっており、加えて中国では一枚も見つかっていないことから、日本国内で作られたという意見もあります。鏡の銘に書かれた文字が魏王朝の工房をはっきりと示しているという反論もあり、意見が割れています。

奈良県では巨大な館を思わせる建物跡、日本の全国で焼かれた(奉納された)と推定される多数の土器、6つの古墳が発掘された。(纒向(まきむく)遺跡)

で、結局どっちなの?

現在では畿内説──奈良県のあたりに邪馬台国があったと考える向きが強いです。
というのも纒向(まきむく)遺跡で見つかった古墳の一つ、箸墓古墳(はしはかこふん)の存在が大きい。

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箸墓古墳。画像はWikipediaより

これまで日本で古墳が作られ始めたのは3世紀末か4世紀初頭と考えられてきましたが、箸墓古墳の作られた時期はそれよりもっと古い日本最古の古墳であることがわかってきたのです。
そうなると邪馬台国を治めていた卑弥呼の墓も、古墳であった可能性が高い。
しかも箸墓古墳の後円部の直径が、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の円墳の直径と一致するというのです。

日本書紀には箸墓古墳が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓であると書かれています。ヤマトトトヒモモソヒメは第七代孝霊天皇の皇女で、巫女的な性格が強い人物でした。

このヤマトトトヒモモソヒメこそが卑弥呼である可能性があるのです。

卑弥呼の後継者の台与(トヨ)やその後を継いだ男王の墓だという説もありますが、いずれにせよ箸墓古墳の大きさ(全長278メートル)から考えても、よほどの権力者であったことに違いありません。纒向(まきむく)遺跡の6つの古墳は最古のヤマト政権を担った者たちの埋葬地なのです。

じゃあ九州説は間違いなの?

邪馬台国の所在地という点では畿内の可能性が高いですが、九州~畿内までの一帯が有力者同士を結んだ倭国の連合国家だったと考えられているので、九州もまた卑弥呼の統治下だったとも言えます。邪馬台国は倭国の首都というようなイメージが適当でしょう。
古墳時代にヤマト王権として確立したと思われていた政治基盤は、卑弥呼の時代にも形を為していたと思われるのです。(注、異説あり)

邪馬台国が畿内が魏志倭人伝ではどうして南と書いたの?

卑弥呼と国交を結んだ魏の国の南方には呉の国がありました。呉の国は魏の北方の高句麗と結んで魏を挟み撃ちにしようと考えていました。
そんなときに邪馬台国からの使者が魏にやってきたのです。魏にとっては絶妙のタイミングでした。
魏は呉の近くの海上に邪馬台国があると思わせることで呉をけん制することを思いついたのです。

それが日本列島の位置を実際よりも南へと押しやる記述へとつながります。
つまり魏は邪馬台国の位置を実際よりも南にすることで、政治的、軍事的に利用していたと推測できます。
実際、呉の孫権が皇位についた230年、呉は南東平定のために水軍を派遣しています。しかしそこに邪馬台国はないので徒労に終わります。

その後、魏は邪馬台国の卑弥呼に破格の待遇を与え(239年)、魏志倭人伝の南という記述へとつながっていったのだと考えられます。


長々と書いてきましたが、最後に一言。
縄文、弥生、古墳と続く時代はある意味でどんな想像でも許される度量の深い時代ですので、気になるところがあれば是非自分でも調べてみてください。意外な発見があって面白いですよ。

参考『邪馬台(ヤマト)国・西川寿勝、白石太一郎、水野正好』


  1. 2017/08/15(火) 07:13:31|
  2. 歴史の謎

坂本竜馬暗殺の黒幕は? 下手人は斉藤一?

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画像はWikipediaより

坂本竜馬といえば薩長同盟の立役者として、知らない人はいません。
竜馬の最期は悲劇的で、彼は新時代を迎えることなくこの世を去りました。享年33歳。

さて、その竜馬。
近江屋の二階に中岡慎太郎と共に泊まっていたところを襲われて命を落とすのですが、その下手人や黒幕が度々話題にのぼります。

よく犯人として挙げられるのが京都見廻組と新撰組です。
両者はともに会津藩のお預かりとして、京で暗躍する浪士や長州藩とは対立する立場にありました。幕末の京では多くの藩士や浪士が、京都見廻組と新撰組の手によって斬られています。悲劇の舞台となった近江屋では、新撰組隊士、原田左之助のものと思われる鞘が見つかったことで当初は新撰組の関与が疑われていました。
(本当に原田左之助の鞘だったかどうかは不明)

しかし明治3年、函館で捕らえられた京都見廻組の今井信郎が竜馬暗殺を自供したことで、見廻組の犯行であることが判明。
竜馬の暗殺は、今井信郎、佐々木只三郎ら京都見廻組の手によるものだったことが明らかになりました。

本当に見廻組の犯行なのか?

竜馬暗殺について諸説あるのは、下手人である今井信郎と関与した他の見廻組隊士の証言に食い違いがあることや、犯人である今井信郎がたった二年の禁固刑しか受けていない(特赦により放免)ことが様々な憶測を呼ぶことにつながっています。

竜馬を狙っていたのは誰か?

京都守護を受け持つ会津藩の他に、竜馬と船事故の賠償を巡ってトラブルのあった紀伊藩も竜馬に恨みを抱いていました。
しかしもっとも根強い支持を集めているのが薩摩藩黒幕説です。
大政奉還を望む竜馬と、あくまでも武力討伐にこだわる薩摩との間で不和が生じていたと考え、そこから生まれた疑いです。

浅田次郎さんの小説「壬生義士伝」では、この説をもとにして竜馬暗殺の下手人を新撰組隊士の斉藤一にしていました。

新撰組のなかには薩摩側に寝返ろうとするグループ(御陵衛士)がいたのですが、薩摩への手土産として御陵衛士は竜馬の暗殺を企てるという内容です。
その役目を担わされたのが、新撰組隊士のなかでも腕利きだった斉藤一。
斉藤は新撰組副長、土方歳三の命でスパイとして御陵衛士に潜り込んでいましたが、御陵衛士の頭目だった伊藤甲子太郎に頼まれて、やむなく竜馬暗殺を引き受けます。
竜馬暗殺を拒否することはスパイ活動を疑われることになるので、その役目を引き受けざるを得ませんでした。


竜馬がどのようにして斬られたのかは、竜馬の遺品の鞘や近江屋に残された血痕のついた掛け軸などから、おおよそのことがわかっています。※遺品の鞘は大正2年、釧路の大火で失われており、現在残るのは写真のみ。
竜馬は向かい合った姿勢から、一太刀目で額を斬られ、立て掛けてあった刀で防戦するものの、鞘から刀を抜くヒマもなく絶命しています。

優れた剣術家だった竜馬をあっという間に切り伏せることができたのは、屈指の剣術家でなければならない。また向き合った姿勢から、初手で優位に立てる居合いの使い手、ついでに左利きの人なら尚更いい。
そこで左利きで居合いの使い手だった斉藤一にスポットを当てて考察されたのだと思います。


※当時の武士の作法として向き合って座ったとき敵意がないことを示すために右側に刀を置いた。
右側の刀を抜く場合、右利きの人間は左に一度持ち替えねばならず、斬るための動作が一つ遅れる。しかし左利きの人間ならば、右側に刀を置いたまま抜刀できる。

何かの番組で東京大学の教授も、斉藤一下手人説を話していました。ただ浅田次郎さんの「壬生義士伝」もそうですが、これらの説は人気のある新撰組隊士の斉藤一と竜馬を絡めることでよりセンセーショナルな演出を意図したもので、斉藤一が近江屋にいたという記録はありません。
薩摩藩が後ろで手を引いたとしても、それを裏づける史料がないので落としどころとしては見廻組になってしまいます。


最近オカルトとは関係のない内容が増えてますね。オカルトはエネルギーの消耗が多いのでやむを得ないのです。察してください。

そうそう、斉藤一といえば近年になって、顔写真が出てきました。当たり前のようWikipediaに載ってましたが、容姿がわかったのはつい最近のことです。ファンとしては嬉しい限りですね。

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掘りの深いイケメンのおじい様。若い頃はさぞかっこよかったと思われます。画像はWikipediaより



  1. 2017/07/31(月) 07:35:33|
  2. 歴史の謎

徳川綱吉ってどんな人?身長は?

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画像はwikipediaより


生類憐みの令のためにあれやこれや言われることの多い将軍、徳川綱吉。

※生類哀れみの令とは、生き物を労わりなさい、という綱吉の治世中に出された130回以上の指令の総称。

彼は一体どんな人物だったのでしょうか。

徳川綱吉。
徳川幕府の5代目将軍。1646~1709年。

綱吉は儒学を学び、和歌にも通じていて、現代で言うところの教養人でした。

初期は徳を重んじた善政を敷いていましたが、中年になったあたりから生類哀れみの令を出したり、老中を遠ざけて独裁的な政治を行ったりして、その評価が分かれる人物です。

生類憐みの令は悪法?

以前までは、悪法と評価されていた生類哀れみの令が災いして、綱吉の評価も低かったのですが、現代では少し見直されてきています。
というのも、その内容は老人子どもに優しくせよ、捨て子にも優しくせよ、野良犬をいたわれ、馬をいじめないように、といった道徳的、風紀的な戒めの内容も多分に含まれているからです。

もちろんそれだけではなく狩猟や漁業に関する禁止もあったので、困惑する人々も大勢いました。疫病の馬を捨てて流罪になった人、釣りをして投獄された人、犬を斬って死罪になった人も実際にいます。しかし処罰を受けた人の数は、綱吉の治世でもそれほど多くはなかったという話もあります。
綱吉の評価が見直されてきているのは、偏屈な博愛主義者というよりは、世の中の悪い風潮を改めていこうとする健全な考えが垣間見れるからです。

暮らしの事情

一方、庶民にとってみれば、たとえば犬をいじめるのにも理由があったわけで、当時は犬による害が続くという事情がありました。野生化して暴れまわり、人を襲うこともありました。それに対して反撃して何が悪いのかと内心反発する人々もいたのです。

風潮とは生活に根ざしたものなので、それを命令のみで改めるのは難しいことです。
とはいえ、綱吉が慈愛でもって世の中を改めようとした理念そのものは非難できることではありません。忠臣蔵は有名ですが、浅野内匠頭を切腹に処したのは朝廷の儀式を壊されたとの強い憤りがあったと言われています。

こうしてみると徳川綱吉という人は儒学を重んじた理想主義的であり、ちょっと杓子定規なところがあったのかもしれません。

綱吉の身長は?

その綱吉、身長が124cmだったという説があります。
根拠となっているのは大樹寺の位牌の高さ。

大樹寺は徳川の菩提寺で、歴代当主の位牌が安置されているのですが、その位牌のサイズが当主たちの身長に合わせて作られているという話があります。

wikiより抜粋。

1.家康159.0cm
2.秀忠160.0cm
3.家光157.0cm
4.家綱158.0cm
5.綱吉124.0cm
6.家宣156.0cm ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は160cm前後
7.家継135.0cm ※満6歳薨去
8.吉宗155.5cm ※身長は六尺(約180cm)あったとも伝えられる。
9.家重151.4cm ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は156cm前後
10.家治153.5cm
11.家斉156.6cm
12.家慶153.5cm ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は154cm前後
13.家定149.9cm
14.家茂151.6cm ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は157cm前後


これを見ると綱吉と家継以外は各5cmほどのズレしかないので、ちょっと感動します。

綱吉の身長が124cmだったかどうかの問題に決着がつくことはないでしょうが、他に一切史料がないのでやや信憑性には欠けます。欲を言えばあと一押し説を補強するものがほしかった。文書でなくとも口伝かわらべ歌でもいい。これをロマンというのはおかしいけどロマン色薄めです。

  1. 2017/07/29(土) 21:16:16|
  2. 歴史の謎