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卑弥呼の正体が判明か!邪馬台国論争の決着は近いかも!

歴史に興味がない人でも、女王卑弥呼の名は聞いたことがあると思います。
3世紀の半ば卑弥呼(???~248年頃)が治めていた国が倭国であり、その都市のひとつが邪馬台国だったと考えられています。

縄文時代、弥生時代、古墳時代と続く一連の時代は史料がほとんどないため歴史学者は中国の文献や、後年に書かれた古事記(8世紀)や日本書紀(8世紀)を頼りに、考古学者は古墳や遺跡を調査し、手探りで当時のことを探っています。

そんな謎だらけの時代において、江戸時代から続く論争があります。

邪馬台国は一体日本のどこにあったのか、その地域巡る論争です。

きっかけは邪馬台国を紹介した魏志倭人伝のこんな記述でした。

魏とは中国の三国時代の魏です。コーエーゲームが好きな人には馴染みの深い国ですね。近頃は曹操様もいろんな姿になってますなー。

239年(魏志倭人伝)
「倭人は帯方の東南の大海の中にあり─郡より倭に至るには海岸に循いて水行し─始めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る。伊都国から南のかた邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月

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魏の使者が邪馬台国までのルートを示しています。伊都国まではおおよそ道筋が判明しているものの、問題は伊都国から南へ水行十日、陸行一月の記述。

水路で十日、陸路で一月という距離をそのまま南への道で考えると、九州を飛び越えて遥か先の太平洋に出てしまうのです。

これは方角の記述ミスで、南ではなく東と書くつもりだったとして邪馬台国を近畿と考える畿内説。
方角ではなく、距離の書き間違いで邪馬台国はそのまま南の九州と考える九州説。
畿内か九州か。二つの説を巡って様々な考察がなされました。


論争に決着がつかなったのにはわけがあります。
新たな出土品から真事実が次々とわかってきて、二つの説をともに後押ししたからです。

以下にまとめてみました。

九州説。
中国から渡ってきた鉄器の出土数が全国でもっとも多い。佐賀県で大規模都市、吉野ヶ里遺跡が発掘された。

畿内説。
黒塚古墳で大量の銅鏡(三角縁神獣鏡)が出土した。魏志倭人伝には銅鏡100枚を卑弥呼に送ったことが書かれており、三角縁神獣鏡がその銅鏡に該当するかもしれない。

※ただし三角縁神獣鏡は日本全国で500枚以上見つかっており、加えて中国では一枚も見つかっていないことから、日本国内で作られたという意見もあります。鏡の銘に書かれた文字が魏王朝の工房をはっきりと示しているという反論もあり、意見が割れています。

奈良県では巨大な館を思わせる建物跡、日本の全国で焼かれた(奉納された)と推定される多数の土器、6つの古墳が発掘された。(纒向(まきむく)遺跡)

で、結局どっちなの?

現在では畿内説──奈良県のあたりに邪馬台国があったと考える向きが強いです。
というのも纒向(まきむく)遺跡で見つかった古墳の一つ、箸墓古墳(はしはかこふん)の存在が大きい。

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箸墓古墳。画像はWikipediaより

これまで日本で古墳が作られ始めたのは3世紀末か4世紀初頭と考えられてきましたが、箸墓古墳の作られた時期はそれよりもっと古い日本最古の古墳であることがわかってきたのです。
そうなると邪馬台国を治めていた卑弥呼の墓も、古墳であった可能性が高い。
しかも箸墓古墳の後円部の直径が、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の円墳の直径と一致するというのです。

日本書紀には箸墓古墳が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓であると書かれています。ヤマトトトヒモモソヒメは第七代孝霊天皇の皇女で、巫女的な性格が強い人物でした。

このヤマトトトヒモモソヒメこそが卑弥呼である可能性があるのです。

卑弥呼の後継者の台与(トヨ)やその後を継いだ男王の墓だという説もありますが、いずれにせよ箸墓古墳の大きさ(全長278メートル)から考えても、よほどの権力者であったことに違いありません。纒向(まきむく)遺跡の6つの古墳は最古のヤマト政権を担った者たちの埋葬地なのです。

じゃあ九州説は間違いなの?

邪馬台国の所在地という点では畿内の可能性が高いですが、九州~畿内までの一帯が有力者同士を結んだ倭国の連合国家だったと考えられているので、九州もまた卑弥呼の統治下だったとも言えます。邪馬台国は倭国の首都というようなイメージが適当でしょう。
古墳時代にヤマト王権として確立したと思われていた政治基盤は、卑弥呼の時代にも形を為していたと思われるのです。(注、異説あり)

邪馬台国が畿内が魏志倭人伝ではどうして南と書いたの?

卑弥呼と国交を結んだ魏の国の南方には呉の国がありました。呉の国は魏の北方の高句麗と結んで魏を挟み撃ちにしようと考えていました。
そんなときに邪馬台国からの使者が魏にやってきたのです。魏にとっては絶妙のタイミングでした。
魏は呉の近くの海上に邪馬台国があると思わせることで呉をけん制することを思いついたのです。

それが日本列島の位置を実際よりも南へと押しやる記述へとつながります。
つまり魏は邪馬台国の位置を実際よりも南にすることで、政治的、軍事的に利用していたと推測できます。
実際、呉の孫権が皇位についた230年、呉は南東平定のために水軍を派遣しています。しかしそこに邪馬台国はないので徒労に終わります。

その後、魏は邪馬台国の卑弥呼に破格の待遇を与え(239年)、魏志倭人伝の南という記述へとつながっていったのだと考えられます。


長々と書いてきましたが、最後に一言。
縄文、弥生、古墳と続く時代はある意味でどんな想像でも許される度量の深い時代ですので、気になるところがあれば是非自分でも調べてみてください。意外な発見があって面白いですよ。

参考『邪馬台(ヤマト)国・西川寿勝、白石太一郎、水野正好』


  1. 2017/08/15(火) 07:13:31|
  2. 歴史の謎